たま~にバリが恋しくなる時があります。
タイトルでは帰らないと言っておきながら。
どういう時かというと、現地在住者のブログを読んだりした時。
あのまったりとしたゆる~い空気が思わず懐かしくなって。
海があり、山があり、自然の中をバイクで風切って走るあの爽快さ。
朝サヌール、昼間はウブド、夕方はクタやスミニャックのビーチでサンセット鑑賞。
そんなバリでの生活が無性に恋しくなる。
今住んでいる場所が海や山から離れているから、尚更そうなのかもしれない。
でも恋しいのはそれだけ。
自然と食べ物と、(涼しい時間帯で道が空いている時の)バイクだけ
(あ、あとナシ・バリ、サンバル・マタ、それとバビ・グリンはたまに食べたくなる)。
それ以外の文化的・宗教的・思想的なものは全く、です。
海や山にバイクで行く体験ならバリ島以外のインドネシアでも出来るし。
ロンボク、スラウェシ、スマトラ、カリマンタン、マルク等など、
インドネシアで訪れたい所は山ほどあります。
インドネシアは広いです。20代ならいざ知らず
バリにばっかり言ってたら時間がもったいないです。
バリ料理が食べたかったらロンボク島があるさ。
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何故ここまでバリを拒否するか。
それは勿論、クリスチャンにとって楽しい場所ではない、ということが大きいです。
いたるところにある偶像が耐えられません。気味が悪いから。
お供え物が耐えられません。悪霊に捧げられたものだから。
ドゥーパ(お線香)の匂いが耐えられません。気持ち悪くなるから。
流れてくるマントラの声が耐えられません。気持ち悪いから。
だったらバリに来るな、ですよね。
だから行きません。自分の精神衛生上のためにも。
そしてそれ以外にも、バリにはもう住めない理由
それはあそこでは成長できない、ということ。
バリ島に住みたいとおっしゃる日本人の大半がのんびりしたい、と言います。
日本で疲れ切った人にはバリ島が天国のように感じるんでしょうね。
私も最初はそうでした。
疲れている日本人にバリはどこまでも優しい。
でも段々と住んでいるうちに自分が劣化していくことに気づきました。
日本に帰るたび、周囲の人や友人たちと比べ自分は全く成長していない。
みんな何かしら頑張っているのに。
前に進もうとしているのに。
新しいことに挑戦したり、趣味や個性を伸ばしたり、何かをやっている。
日本人ってやっぱり勤勉。
60、70になっても新しいことに挑戦したりする。
英語を学ぼうとか、ボランティアで地域に献金しようとか、
バリ島ではそういう人達に殆どお目にかかれないです。
とういか、バリ人達がそれを難しくします。
頑張ろうとしても、そんなことやらなくていいよ、大変でしょ、出来なくても平気、休んだら?
物事を真剣に考えようとしても、周りの人達は「ティダ・アパ・アパ~」だし。
こんなバリに私は染まりかけてました。
これからもここにい続ければ、彼らの考えに染まっていくのは明らか。
上るより下る方が楽だし。
そのままでいいよ~、って言われたらそうなってしまう。
これでは単なる怠け者。
日本の友人達と差がついてしまう…。
宗教や文化がイヤなのは、何とかなります。
ある意味自分との戦いだから、頑張って何とかします。
でもこれは優しい顔してるだけにタチが悪い。
知らずに毒されてしまう危険性が高い。
だからバリには住めないのです。
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それでもいつかはバリに行くでしょう。
夫の家族がいるから。
しかし何年後かには私にとって良い方向に変わっているかもしれない。
バリ・ヒンズーがこれ以上広まることはないからです。
逆にあの数々の儀式をナンセンスだと思う若い世代がこれから増えていくはず。
彼らは賢い。
ネット世代で幅広く世界中の情報や知識に触れている。
そんな彼らにヒンズーのあの全ての儀式の意味、そして多額な費用の必要性を
理に適って説明し、納得させられる人物が果たしているのか。
いないと思います。
ヒンズーには教理が無いからムリです。
クリスチャンには聖書、ムスリムにはコーラン。
伝える言葉があったから広まったんですね。
ヒンズー、仏教にはそれがないのでこれから衰えていくでしょう。
だからバリにいてもそれ程苦しくない時がやってくるのではないか。
そう思っています。
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しかしこう強気になってはみたものの
いつかは夫の家族に会わないと。
その時どうやって対応するか、という問題が残っています。
あの一連の儀式をどうやって断るか(私はクリスチャンなんで~、で通じるか)。
親族の冷たい目線に耐えられるか。
何よりもあの石像だら寺だらけ、悪霊だらけの環境に耐えられるか。
…大丈夫、多分いけるでしょう。
これから私はもっと聖書を読んで、神様の言葉を蓄えていきます。
そうすると私の霊が成長します。
だからバリの悪霊に勝てるわけなんです。
親族の目線にも耐えられるでしょう。
何よりも私には神様がついていますので。
神様は私が助けを求めればきっと助けて下さいます。
これが信仰ですね。
信じる者は幸いとはこのこと。
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最終更新日 : 2021-09-12